山本七平「空気」の研究

読書メーターでは分量的に書けないのでこちらで。

 

カギカッコで括られた「空気」という文字を見るだけで、これが何を扱う文書なのかは多くの日本人にピンとくるところだろう。

もちろん物理や力学の話ではなく、きわめて日本人的な「集団における意思決定・世論の形成に影響を及ぼすもの」としての空気が主題となっている。

三章に分かれており、特に「空気」の作用機序について書かれた一章がもっとも読まれているか。ここでは一章の概要をまとめた。(二章、三章は別の記事にしようと思う)

 

コロナのこの世の中でもめちゃくちゃフィットする言説なんじゃないかと思います。

 

戦艦大和、自動車排ガス規制、イタイイタイ病などの公害問題を見るに、空気は科学的・論理的な議論を超えて、最終的な意思決定にすら影響を及ぼしえるもの。

例えば自動車排出ガス規制(日本版マスキー法)ではNoXの有害性について、科学的には結論付けられないにも関わらず、日本だけは過剰な低濃度で規制が施行された。世論がそうでなければ許さなかった。

 

②その「空気」による支配の最も原始的なもの・「基本型」は、モノによる空気の醸成である。日本人はモノへ感情移入/乗り移りをすることで、そのモノを「臨在的把握」・「偶像化」してしまう。それは他国の民族にはない現象である。

とある遺跡発掘現場にて見つかった人骨を運ぶ、という仕事がユダヤ人と日本人が共同で行われた際、体調の不調を訴えたのは日本人のみだった。日本人のみが人骨から呪いや怨念などの念を想起して感情移入してしまった、乗り移ってしまった結果と思われる。

 

③上記の発展形として、命題による空気の醸成がある。

(「空気」を持ち出さずにプロパガンダということで片付く気もするが)西南戦争における官軍と賊軍のイメージ戦略に基づいた世論の構築(=臨在的把握の構築)などが好例。日本人の善悪の概念の取り扱いの特異さについての記述が面白い。日本人は善玉と悪玉と分けることで善悪の概念を導入するが、諸外国では二つの陣営について善悪の概念の概念に照らしたとき、その二者のどこか善で・どこが悪かを識別しようとすると。(この時代にありがちな過剰な海外持ち上げな気もする)

 

④ こうした空気の醸成の結果、日本人は対象とそれに乗り移した感情を絶対化してしまい、複数の言説の相対化をしながら議論することができなくなる。

モノによる感情移入の絶対化の例として「寒いだろうからと保育器に懐炉を入れて赤ん坊を殺してしまう」という例が上がっている。感情移入を絶対化してしまうとそのような「親切」は否定できないものとなってしまうから、極論「そういった親切の行為の結果で赤ん坊が死んでしまう保育器が悪い」という論され出てきてしまう。公害問題についても、「カドミウムを絶対的に有害で悪なもの」とみなしているため、いかに科学的な根拠を積んでもその認識は覆らず、経団連の前で「すべての工場の稼働を停止せよ」とデモを行うような集団まで出てきてしまう。
天皇を「現人神」ととらえるのも空気による絶対化。天皇が「現人神」と宣言された公的な文書や発言はないにも関わらず、国民に広く広まった。いわば偶像崇拝に近い。偶像は話をしたり、動いたりしてはならぬ存在である。

 

⑤こうした日本人の態度が議論に乗らなかったのは、明治啓蒙主義の下手な「否定的切除」に起因する

明治啓蒙主義の態度は「骨に霊を感じるのは啓蒙的態度ではなく、馬鹿馬鹿しい」という切り捨てであったため、古来よりあったアミニズムに起因する物心信仰や、感情移入に基づく超科学・規制的な判断についての議論がされてこなかった。

 

⑥「おっちょこちょい」に見えるが、日本人はこうした空気による絶対化を通じて「ジグザグ型の相対化」をしている

「創世記」にあるような明白に互いに矛盾する記述を「調整・解釈」する神学を用意するユダヤキリスト教と違い、日本人は常に一つの対象を絶対化するが、とはいえ時間的な変化で絶対化する対象はコロコロと変わる。(会議と酒場で醸成される空気が異なるように、かなり短時間でコロコロと切り替わる)それらが、熱しやすく冷めやすい国民性と意思決定の遅さ、という日本人の気質を生み出している。