石牟礼道子「苦海浄土」

小学校の社会の授業で四大公害病について習い、穴埋め問題では「水俣病」と書いたことをなんとなく覚えている。「俣」の字が小学生には難しかったからだろう。

資料集に水俣病患者の白黒写真が載っていたかもしれないが、どうだったか覚えていない。

そんな水俣病を扱う作品だが、こんな私でも、これまで読んできた小説のなかで十指に入るほど圧倒された。

 

これはあくまで「小説」なので、豊饒な水俣の自然とそこに住む生命力にあふれた漁民が、水俣病によりいかにむごたらしく蝕まれるか、その落差や対比に、作家の技術を読み取ることはできる。

 

ただ、強い水俣弁のナラティブか、強烈に「立っている」エピソードや人物のせいなのか、描かれる漁民が虚構であるとは到底思うことができなくて、読んでいてルポルタージュなのか小説なのか、よく分からなくなってしまったほどだった。

これを小説であると言い切ってしまうのに、気が引けるような感覚もある。

 

ただ、自然保護や公害問題の啓発の書として扱うのも間違っていると思う。

そして、水俣病患者の受難の物語でもない。漁民たちは過ちを犯さない純粋な弱者ではなく、水俣市における水俣病患者、市民、「会社」の関係はもっとずっと複雑だ。

 

とにかくとんでもない小説だった。

 

 

カフカ「ブレシアの飛行機/バケツの騎士」

カフカの軽めの短編集。光文社古典新訳文庫から出ている。

 

訳者あとがきで「二週目の読者」を想定しているとあるけど、池内先生訳を読了した人向けの訳なんだと思う。(あるいは新潮の全集だろうか)

 

この短編集に限らず丘沢先生訳は非常にクリアで、カフカの明瞭なところ・そうでないところの区別がつくのがとてもいい。

あとがきにもあるけど、風景や人物の動きという外的なものはとてもクリアに書くけれど、人間の内面は全く書かないか、あるいは複雑に書くのが彼のクセなのだ。

 

人間の内面を、半ば読者の理解を拒むように書いているような向きもあって、ゆえに不条理小説だと言われたりもしてきたのだろうけど、カフカは実は素直な人で、多少そうした「カッコつけ」はあったんだけど、そんな拗らせていたものではないと個人的には思う。

彼の人生って小市民のそれと言ってさしつかえないほどだし、当時の人並みに新しいもの好き、女好き。唯一、婚約者との関係がどうも引っかかる点ではあるが。

 

収められている短編は若書きとも評されていて、そうした「かっこつけ」が前面に出ているものもある。ただ、やっぱり根が素直な感じもして、カフカの根本にある魅力だと思う。

 

この短編を読んでいると、ちょっとつげ義春の初期作品っぽさも感じる。既存の小説とは違うものを書こうとして、どうにか新しい視点、構成、表現を導入できないか、孤軍奮闘しながら模索していて、前人未到の場所への道しるべがちょっと見えてきている感じ。でも、本人がまだよく分かってなくて、同じところをぐるぐると逡巡してる。

 

 

ドストエフスキー「悪霊」

2025年の年末に駆け込みで読了した。

光文社古典新訳は文字組がパラっとしているのでサラサラ読めたけど、読みも読んだり2000ページ。

 

カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」と比べると、現代でも読む価値のある普遍性を備えている小説であるとは言いきれない部分があったように思う。

まずもって当時のロシアの政治状況は、日本人には縁遠く、革命運動の諸相(オルグ、弾圧、密告など、そしてキリスト教を含むイデオロギーとの対立など)に現実味をもって想像をめぐらすことはできなかった。

それが小説の主眼ではないのだけれど、欠かすことのできないモチーフである以上、どうも上滑りしながら読んでいたという感覚が残る。

 

なにより、スタウローギンとピョートルについて、人間観があまりに現代とかけ離れている。端的に言えば「こんなやつ居なくね?」というやつである。

 

スタウローギンはやけっぱちな気分で自分の人生を捨てており、とある少女との性的な事件に悩まされ自殺まで考えているが、の割にあまりに活動的すぎるのだ。

「中身がないニヒリスト」と作中で何度も描写されるけど、破壊的な思想を半ば気まぐれで他人に植え付けたり、乗り気ではないにせよ革命活動にも関わり、他人の婚約者に手を出したりするなど、物語の中心的な役割を精力的に果たし続ける。

ドストエフスキーも彼が物語の中心であると言っていた)

 

ニヒリストな活動家というのは成立するだろうか?

どのような背景で彼はそのような人間になったのか?

そんな彼を革命の中心に据えて、物事は動くのか?

どうしてキリーロフやシャートフはそんな彼に感化されたのか?

 

ドストエフスキーは何も書いてない(おそらくワザとだと思うけど)から、どうも納得できない部分が多かった。

 

ピョートルにしても疑問が残る。

シベリア送りや死刑のリスクを承知しつつ、殺人や破壊工作に勤しむ。が、革命組織を組成することや大きなムーブメントを作ることに興味がなさそうにさえ見える。

個別具体の事件は起こすけれど、それじゃ革命できないでしょう、と突っ込みたくなってしまう。

 

ドストエフスキーが当時の革命運動に対して思想的に反抗する目的もあってこの小説は書かれているからか、ちょっと革命活動の諸要素が書き割りのように見えてしまって、ドストエフスキーの作品の割にスケール感がないように感じてしまうのだ。

 

また、文体や形式も気になるところがある。ドストエフスキーの文章は元々かなり崩れていて分かりづらいんだけれど、「悪霊」はその中でも群を抜いている。登場人物が自分の意図や伝えたいことをどこまでもボカすので、特に第2部は2,3回読まないとあまり意味が取れないだろう。

この文体や形式の持つ文学的な効果と、読みこなすための負荷が釣り合っていない。

 

ただ、それでもドストエフスキーであるのでとんでもなく光る箇所も当然ある。

一つは、女性家庭教師向けのチャリティーイベントのカーニバル感。グロテスクすぎる。大勢が一同に集まって、それぞれの意志で動き、なんらかの価値を希求するけれど、大衆が低俗なものにしてしまうというカーニバル。

もう一つは、ステパンとワルワーラ夫人の顛末。まさにドストエフスキーという感じで、軽蔑や諦めをお互いに抱いて、20年もタイミングを逸してしまって、かつプライドや社会的なステータスから相手を完全には受け入れてはいないんだけれど…「それでも」って感じに胸を打つものがあった。

 

 

 

 

 

マヌエル・プイグ「このページを読む者に永遠の呪いあれ」

「蜘蛛女のキス」が有名なアルゼンチンのプイグ。

まずタイトルが最高過ぎる。ただ、ラテンアメリカの呪術的な要素があるかと思いきや、そんなことは全くない。もう自分では立つこともできない老人と、その話相手となる中年の男のはなし。

 

「蜘蛛女のキス」も相当に良かったが、この作品も同じく素晴らしかった。

2025年読んだもののなかで、今のところ一番かも。

 

この時代のラテンアメリカ文学というと、ガルシア・マルケスやジョサ…と列挙するまでもなく、独裁制などの政治的な話題、ぶっ飛んだマジック・レアリスムが想起されるけど、プイグは全く違う。もっと個別・具体の人間を書いていて、ラテンアメリカ文学のなかでは、ボラーニョに近い。少し時代はずれるけど。

 

ただ、ボラーニョとも明らかに違う。全編会話、地の文がないという表現は「形式」であると同時に、「内容」そのものという感じ。時間・空間的な広がりという意味での小説世界を、書くつもりがなかったんだろうし、書けなかったんだろう。

 

特にこの作品は、時間と場所に関して全く注意が向けられていないし、読む上でも、言ってしまえば割とどうでもいい。

 

ただ、何も言及はないのだけれど、会話されているその場が暗く、湿気ていて、互いに相手の体温がわかるような距離にいるのだと、読んでいてなぜだか確信してしまう。

そして、あらゆる社会的な事象とは完全に切り離された、二人だけのひそやかな話をこっそり聞いているような気持ちになる。

 

当然そういう話って、人間なら誰しも聞きたくなってしまう。

 

その意味で、小説であるとかシナリオであるとかいうジャンル以前のところで、この作品はすでに成功していると、個人的には思う。

小島和男「反出生主義」

子供を作るべきではないという主張

  • ベネターの思想は、既に存在している人が「生まれてこなければよかった」と後悔するものではなく、「新しい人間・意識(可能的存在)を生み出すべきではない」というもの
  • それは、下記の基本的非対称性から導かれる(Wikiを引用)功利主義的な考え方であることに注意
シナリオA(Xが存在する) シナリオB(Xが存在しない)
1. 苦痛の存在(悪い) 3. 苦痛の不在(善い)
2. 快の存在(善い)
4.快の不在(悪くはない)
  • 「悲惨な人生を送るだろう人を産むのは避けるべきだが、幸福な人生を送るだろう人を産む義務はない」
  • 多くの人にとって人生は苦痛に満ちていることが前提になっている。私もそう思う
  • シナリオAにおいて、快が苦痛を大きく上回るなら、Xは存在すべきなのではないか?という問いに対しては、
    • 健康さんと病気さん。病気さんは時々強い快を得ることがあっても、苦痛も付きまとうので、常に健康な方がよい。つまり、単純に快と苦痛は加減算できない
    • 可能的存在の快と苦痛はあらかじめ予想できない
    • 個人の快と苦痛に対する評価は主観的過ぎてあてにならない
  • 子どもを作ることは、これから生まれてくるXに銃口を向けたロシアンルーレット。まともな人間なら、一発でも銃弾が入っていれば(世の中は苦痛に満ちており、銃弾はもっと入っているが)銃は撃たないだろう

現在している存在についての主張

  • 上記で倫理的に評価しているのは「始める価値」であり、現在している存在が生を続けるべきかどうかは別。その評価の対象となる価値を「続ける価値」と呼ぶ
  • 「続ける価値」は「始める価値」より厳密に評価されない。映画を見始めるか、見続けるかの違い
  • 映画を途中で見るのをやめること=自殺は大きな苦痛が伴う。その苦痛が、映画を見続ける苦痛より小さいのか、という観点で考える
  • たいていは映画を見続けたほうがいい。死は苦痛に満ちている

中絶・人口についての主張

  • 前述より、中絶はよい行為として評価される
  • また、人類の人口はゼロが望ましいことになる。ただ、瞬間的に全人類が死ぬことは超非現実的であることから、段階的に人口を減らしていくべきとベネターはいう。それもだいぶ非現実的だけれど

子を持つ親に対しての主張

  • 可能的存在のためのよい行為というものは存在しないことから、子を産むことは現在している存在のための行為(親、親戚、社会、国家など)
  • 子供を持つことは自然な行為であっても、そうするべきかどうかは別の問題。「である」から「べき」は導けない。ヒュームの法則
  • したがって、親は「本人たる可能的存在を一定害することを許容しながら、自身を含む現在している存在のために、子供を産んでいる」ということになる

メモ

  • 大騒ぎするほど過激な話でもないと思う。ベネターの論にしたがって、苦痛がゼロであることが確約できなければ、限りなくゼロに近いと予想されるとしても、子供を産むことは非倫理的だ、とまで言うといささか潔癖すぎるが
  • ただ、少なくとも功利主義の土台では反駁不可だと思う
  • 苦痛に満ちているディストピア国家であれば、国民は子供を産むのを控えるだろう。反出生主義は自然な思想ではないが、少なくとも状況によってはありえる考え方ではある
  • 過激に聞こえるのは、世界の快・苦痛のありようについて、人によって全く評価が違い、かつ、どちらかというと楽観的に快を重視する人間の傾向のせいだろう
  • しかし、それも仕方ない。自分のこれから先の将来は快が多く、苦痛が少ないと考えたいものなので
  • 義務論的な考え方に基づいて、やはり、私個人は子供を持つことはしないだろう。それはこの本を読む前から変わりない
  • ちょっと書き物として品質が低い。読むのがつらかった

山本七平「空気」の研究

読書メーターでは分量的に書けないのでこちらで。

 

カギカッコで括られた「空気」という文字を見るだけで、これが何を扱う文書なのかは多くの日本人にピンとくるところだろう。

もちろん物理や力学の話ではなく、きわめて日本人的な「集団における意思決定・世論の形成に影響を及ぼすもの」としての空気が主題となっている。

三章に分かれており、特に「空気」の作用機序について書かれた一章がもっとも読まれているか。ここでは一章の概要をまとめた。(二章、三章は別の記事にしようと思う)

 

コロナのこの世の中でもめちゃくちゃフィットする言説なんじゃないかと思います。

 

戦艦大和、自動車排ガス規制、イタイイタイ病などの公害問題を見るに、空気は科学的・論理的な議論を超えて、最終的な意思決定にすら影響を及ぼしえるもの。

例えば自動車排出ガス規制(日本版マスキー法)ではNoXの有害性について、科学的には結論付けられないにも関わらず、日本だけは過剰な低濃度で規制が施行された。世論がそうでなければ許さなかった。

 

②その「空気」による支配の最も原始的なもの・「基本型」は、モノによる空気の醸成である。日本人はモノへ感情移入/乗り移りをすることで、そのモノを「臨在的把握」・「偶像化」してしまう。それは他国の民族にはない現象である。

とある遺跡発掘現場にて見つかった人骨を運ぶ、という仕事がユダヤ人と日本人が共同で行われた際、体調の不調を訴えたのは日本人のみだった。日本人のみが人骨から呪いや怨念などの念を想起して感情移入してしまった、乗り移ってしまった結果と思われる。

 

③上記の発展形として、命題による空気の醸成がある。

(「空気」を持ち出さずにプロパガンダということで片付く気もするが)西南戦争における官軍と賊軍のイメージ戦略に基づいた世論の構築(=臨在的把握の構築)などが好例。日本人の善悪の概念の取り扱いの特異さについての記述が面白い。日本人は善玉と悪玉と分けることで善悪の概念を導入するが、諸外国では二つの陣営について善悪の概念の概念に照らしたとき、その二者のどこか善で・どこが悪かを識別しようとすると。(この時代にありがちな過剰な海外持ち上げな気もする)

 

④ こうした空気の醸成の結果、日本人は対象とそれに乗り移した感情を絶対化してしまい、複数の言説の相対化をしながら議論することができなくなる。

モノによる感情移入の絶対化の例として「寒いだろうからと保育器に懐炉を入れて赤ん坊を殺してしまう」という例が上がっている。感情移入を絶対化してしまうとそのような「親切」は否定できないものとなってしまうから、極論「そういった親切の行為の結果で赤ん坊が死んでしまう保育器が悪い」という論され出てきてしまう。公害問題についても、「カドミウムを絶対的に有害で悪なもの」とみなしているため、いかに科学的な根拠を積んでもその認識は覆らず、経団連の前で「すべての工場の稼働を停止せよ」とデモを行うような集団まで出てきてしまう。
天皇を「現人神」ととらえるのも空気による絶対化。天皇が「現人神」と宣言された公的な文書や発言はないにも関わらず、国民に広く広まった。いわば偶像崇拝に近い。偶像は話をしたり、動いたりしてはならぬ存在である。

 

⑤こうした日本人の態度が議論に乗らなかったのは、明治啓蒙主義の下手な「否定的切除」に起因する

明治啓蒙主義の態度は「骨に霊を感じるのは啓蒙的態度ではなく、馬鹿馬鹿しい」という切り捨てであったため、古来よりあったアミニズムに起因する物心信仰や、感情移入に基づく超科学・規制的な判断についての議論がされてこなかった。

 

⑥「おっちょこちょい」に見えるが、日本人はこうした空気による絶対化を通じて「ジグザグ型の相対化」をしている

「創世記」にあるような明白に互いに矛盾する記述を「調整・解釈」する神学を用意するユダヤキリスト教と違い、日本人は常に一つの対象を絶対化するが、とはいえ時間的な変化で絶対化する対象はコロコロと変わる。(会議と酒場で醸成される空気が異なるように、かなり短時間でコロコロと切り替わる)それらが、熱しやすく冷めやすい国民性と意思決定の遅さ、という日本人の気質を生み出している。